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Koji Kakinuma

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@kojikakinuma
Koji Kakinuma 柿沼康二 書道家 Tokyo2020 Official Poster Artists 金沢21世紀美術館個展 チェコ•リベレツ美術館個展 プリンストン大学客員書家 題字: NHK大河ドラマ”風林火山” 北野武監督映画「首」「アキレスと亀」 「九州大学」伊都正門銘板
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About Koji Kakinuma

Koji Kakinuma (@kojikakinuma) is an Artist creator on Instagram, also filed under Art & DIY. The account has 9,739 followers and 949 published posts. Recent posts average 680 likes and 8 comments, an engagement rate of 6.6%.

Koji Kakinuma belongs to the nano tier, the band usually drawn between 1,000 and 10,000 followers. Koji Kakinuma follows 805 accounts, so the audience is roughly 12 times the size of the list followed. Koji Kakinuma is set up as an Instagram business account. Flinque files Koji Kakinuma under Artist, with Art & DIY as a secondary category.

The Instagram bio for Koji Kakinuma runs to 20 words across 8 lines. The latest activity Flinque has on record for Koji Kakinuma dates from September 2024.

949 Posts

Of the 10 most recent posts shown for Koji Kakinuma, 6 are carousels and 4 are single images. That mix leans toward carousels. Koji Kakinuma has built a substantial archive of 949 posts. Against the audience, that is roughly 10 followers for each post published. All 10 carry captions, averaging 42 words each. The captions are written mainly in Japanese. Words that recur across them include 柿沼康二, 日本経済新聞社, 連載記事, 長文のため and calligraphy. The captions tag #calligraphy, #書道, #japanesecalligraphy, #japanesecalligrapher and #柿沼康二.

日本経済新聞社 連載記事
己の今を問い、ねじり出す (後編)
書家 柿沼康二
2013年2月12日 6:30
(長文のため、次の投稿と前後半のセット回となります。)

| 母の「やってみな!」、背中押す

「行ったら何とかなる」。こう肩を押してくれた父母の言葉とは裏腹に、何をやってもうまくいかない。だまされ、トラブルに巻き込まれ、ぶれにぶれ、ぐれにぐれた。最後はマンハッタンのど真ん中、42番街のアパートに引きこもった。金も名誉もなく、最初に描いていた夢さえ思い出せなくなり、対人恐怖症と酒浸りの日々が続いた。

1年がたとうとしていた。ホームシックの絶頂にふと母親の口癖、「やってみな!」を思い出した。「だめ」という言葉を持たない女性だった。日本に帰りたいが、ただでは帰れない。芸術家の端くれとして、この街で自分の作品を見てもらおうと思い立った。

すべての責任は、オイラが負う。完全なるアウェー戦。会場探し、交渉、計算、PR……。全部が自分1人。よくもまあ、へたくそな英語でやったものだ。生まれて初めての、大きな試練であった。成功とは、とてもとてもいえないが、人生初の個展には違いない。

かつて書家は、一生に1度か2度の個展が普通。50歳前にやるなんて、許されることではなかった。「40、50歳は、はな垂れ小僧」と言われるよう、能力ではなく年功序列によって決められる世界。それが昔も今も大して変わらない、日本の芸道のしきたりである。

「芸術は本来、自分1人でやるものだ」。大学時代の恩師の言葉を肝に銘じる。ほんのちっぽけな足跡だったかもしれないが、自分は芸術家としての記念すべき第一歩を、ニューヨークという異国の地で踏み出した。

崖っぷちに立たされるたび、突きつけられた言葉を思い出す。

「おまえは、だれだ」

あらゆる情報を�
日本経済新聞社 連載記事
己の今を問い、ねじり出す (前編)
書家 柿沼康二
2013年2月12日 6:30
(長文のため、次の投稿と前後半のセット回となります。)

あと2週間ほどで、個展を開く。
「柿沼康二★★★書の情熱」。(2月27日~3月4日、大阪・阪急うめだ本店9階で)
同じ百貨店で8年ぶり、4度目の大規模な個展を目前に控えた書家とは、いかなるものか?

| 日本の書道界を「休学」、ニューヨークへ

まず、このタイミングで目をつり上げ、周囲を怒鳴り散らして制作するアーティスト像なんて、テレビドラマじゃあるまいし、今のオイラには当てはまらない……(笑)。何ごとも、準備の段階から勝負が始まっている。そして、勝負の行方もだ。敵は誰? 自分自身である。中でも「過去」。自分の過去といかに闘い、「今」を燃焼させるかに尽きる。

人生で初の個展を開いた場所は、何とニューヨーク。28歳の夏だった。

努力に努力を重ね、何かを手に入れた瞬間に興がさめ、かえって不安にかられる心境をおわかりいただけるだろうか。

25歳の柿沼青年は「書道界の新人賞」といわれる「毎日賞」を受賞。全国に数千人はいる書家団体のメンバーの中でたった7、8人の1人として、横5メートルにも及ぶ超大作を東京都美術館で発表できるコンペを見事勝ち抜き、数々の最年少記録を打ち立てた。飛ぶ鳥を落とす勢いで書道界を駆け上り、業界のサラブレッドのように扱われ始めたのだ。

同時に、書道「業界」というピラミッドとその頂点や、作品が至上であるべき芸術の世界において立身出世のための人間関係、ゴマスリに精を出す政治家のような先輩書家を目の当たりにして、大きな疑問と矛盾を感じ始めていた。今も問い続ける「書は芸術たるか、己は芸術家たるか」という命題に直面した。

そのころ「夢はニューヨークに行き、書を体系化すること」と書かれた新聞記事が、周囲の大きな誤解を招いた。夢を語っただけなのに、どう間違えたのか「いつ、ニューヨークへ行くの?」と質問攻めに遭った。悩んだ末、「それならいっそ、ニューヨークに行ってしまおうではないか」と、思考を逆転させてみた。

教員を辞め、買ったばかりの新車を売りに出し、コンビニエンスストアの夜勤を半年間続けて渡米資金を蓄え、恋人とも別れ……。何で、そこまでしてニューヨークへ行こうと思ったのか、今でも不思議である。お利口ちゃんの書家なら、売り出し中のタイミングでこんなこと、絶対にしない。年に数回ある大手の書道展に不出品を覚悟で渡米するのは、書道界という学校を自分勝手な理由で休学する問題児になることを意味するからだ。

冒険、武者修行、肝試し、道場破りにも匹敵する無謀な賭け。海外旅行に行った経験もない人間が何を血迷ったのか、一人、海を渡った。日本語の通じない国に身を置き、日本語をモチーフとする芸術でいったい何ができるのか、体で知りたかったのは確かだが。

(つづく)

#Japanesecalligraphy #calligraphy #書道
日本経済新聞社 連載記事
「書」って一体何なんだ? (後編)
書家 柿沼康二
2012年12月11日 6:30
(長文のため、前回の投稿と前後半のセット回となります。)

| 筆独特の運筆法、法則性が「書線」

例えば、楷書で「一」を書くとしよう。「一」はビジュアル的には1本の棒だが、書の場合、実際には「トン・スー・トン」の3つの仕事で書かれるのが基本だ。また、線が連続しながら方向転換する「転折(てんせつ)」というテクニック。「山」の字の左下角の部分や、「口」の字の右上角の部分もちょっと見には2画ながら、書では縦線と横線をつなぐ連結部分に斜めの線で1つ仕事をしてから方向を変えるため、厳密には3画がごとくに書いていく。運筆上、直線は速く進めるが、曲線や筆で方向転換をする際には車の運転のごとく減速しないと、自然かつスムーズに筆は進んでくれない。

書道の未経験者や外国人にはある種、矛盾と映るかもしれない。「何で?」と聞かれても「それはそうだから」「古典がそうなっているから」としか答えようがない。

筆は漢字文化圏に特有の筆記用具である。動物の毛でつくられた非常に柔らかいツールだ。ペンのような突起物ではないから、漢字や仮名を書く際に筆独特の運筆法や法則性が生みだされ、線が書かれてきた。これを「書線」という。鉛筆など硬筆で書かれた漢字、アルファベットや絵画における線と違い、書線は文字の点画すべてが連動連結した有機的かつ立体的な線でなくてはならない。

基礎の臨書の先には、さらに奥深い「意臨」という臨書の世界が待っている。気が遠くなるくらい時間をかけ何千回、何万回と無言の古筆に向き合う。古典の歴史的背景や様式、手癖、美意識、リズム、呼吸感など様々な要素を多角的かつ立体的に模索しながら、最終的には、書き手自身の心理や人物像に迫っていく。

1~3センチメートル程度の文字の細部まで意識して文字や点画に迫り、ちょっとした墨たまり、筆跡の微妙な掠(かす)れをはじめ、一切の変化を見逃してはならない。書き手の手癖、呼吸、様式、美意識など独自の指向や心理を読み解くべく、文字の中のミクロとマクロの世界を旅しつつ、一方では古典の全体像もつかまなければならない。第一級の臨書には異常なまでの集中(微視)、俯瞰(巨視)が同時に必要とされる。

臨書と書線。この2つの概念なしに、書という芸術は成立しない。徹底した古典臨書を通し培った書線で有機的に書かれた文字でない限り、書という芸術には値しない。

識字率の極めて高い日本では、上手下手を問わなけ
れば誰にでも文字が書ける。筆と墨で書いた文字のすべてが「書」を名乗るなら、国民全員が書家となってしまう。だが真の書家は、型あってこその型破り。「ろくに臨書もせず、書家を名乗るべからず」と、声たからかに言いたい。

柿沼康二氏(かきぬま・こうじ) 書家。5歳より筆を持ち、父の柿沼翠流、手島右卿、上松一条らに師事する。東京学芸大学教育学部芸術科(書道)卒業。高校の書道教師を辞し26歳で渡米。ニューヨークで個展を成功させ、2006~07年にはプリンストン大学特別研究員としてニュージャージー州プリンストンに滞在した。「書はアートたるか、己はアーティストたるか」の命題に挑戦し続け、伝統書から特大筆によるパフォーマンスまで、多彩なパフォーマンスを展開する。NHK大河ドラマ「風林火山」や北野武監督の映画「アキレスと亀」など題字も手がける。現在は柿沼事務所代表取締役社長兼所属アーティスト。1970年7月16日、栃木県矢板市生まれ。
日本経済新聞社 連載記事
「書」って一体何なんだ? (前編)
書家 柿沼康二
2012年12月11日 6:30
(長文のため、次の投稿と前後半のセット回となります。)

「文字を正しく整えて書く」の習字に対し、「漢字や文字を創意工夫して美的に表現する」といったあたりが「書」の一般的な定義になるだろう。これだけでは、それぞれの決定的差異がいまひとつ見えてこない。主に筆を使い紙に書く、文字を扱うという点では非常に似ているからである。

| 「柿沼流」の書をひもとく

「書」って一体、何なんだ!?

つまるところ、私の考え方や柿沼流の書を見立てていくしかない。時に独善的なことも柿沼流、ということでご了承いただけたらと思う。

「仕事は立体、作業は平面である」
自分の仕事がおもわしくない時、天から降りてきた言葉だ。仕事を立体的にとらえようと日々精進し続けないと、知らず知らずに仕事ではなく、単なる作業となってしまう。それは同時に、こんな言葉へシフトされた。

「書は立体、習字は平面である」

まず書において非常に大切な、「臨書」という仕事について知っていただきたい。臨書とは、歴史上に古典として残る名筆を模倣することだ。簡単に言うと、絵画におけるデッサンのようなものだが、単に模写や下書きのようにとらえられてしまうと、書の核たる部分を見逃してしまう。臨書は、呼吸でいうと「吸う」作業。吸わなければ何も吐き出せないのが自然である。

3500年とも言われる書の歴史。古典とは、中国では東晋時代に活躍した書聖・王羲之(オウギシ)や中唐の顔真卿(ガンシンケイ)、日本では平安の真言密教の開祖である弘法大師・空海を中心とする「三筆」「三蹟」ら能筆家が書き遺した手紙文や石碑に刻まれた名筆などを指す。

古典は何百年、ものによっては何千年もの時空にさらされ、「グレート!」と言われ続け、歴史のふるいからも落とされず、今日まで珍重されてきた。だからこそ今日なお、私たちはそれらを目にすることができる。

古典とは書における栄養の宝庫、書家にとってのバイブルと言えよう。

中には「美しい」という言葉だけに収まりきれない書き手の人間味あふれる喜び、悲しみ、また怒りなどの感情が赤裸々に表現された書も多数存在する。

古典とは、単に美しいものではなく、むしろ美を超越した個性、他者との決定的に違う筆勢や呼吸など、書き手独自のすごみを宿しているものといえる。書き遺した能筆家自身も、この上ない古典臨書の達人であったことを踏まえておきたい。

習字では先生から配られた一切遊びのないポキポキした楷書、少し崩した端正な行書がお手本とされる。これに対し書は、能筆家が書き遺した古典をお手本にして学ぶ。実は習字のお手本も、元は王羲之系の古典をベースにつくられている。

書では古典をテキストとして袂(たもと)に置き、筆と墨、紙、硯(すずり)の文房四宝を駆使し、日々マスターピース(傑作)を模倣する。まずは文字の形象性、書き順や文字の崩し方、筆使い(運筆や用筆)などの基本を学ぶ「形臨」である。形臨の中から徐々に文字を美的に書く上で大切な法則性、黄金律を見出していく。

ここで書の線、いわゆる「書線」について触れてみたい。

「棒」と「線」、「線」と「書線」は似て非なるものである。

写真:古典をたもとに置き「文房四宝」とともに臨書へ向かう
写真:古典をベースに「万葉集」を楷、行、草、仮名で書き分けた「万葉の四季」(柿沼康二筆)

(後編につづく)
日本経済新聞社 連載記事
書は「3D」のアート
書家 柿沼康二
2013年1月29日 6:30

漢字の起源といわれる象形文字は、文字よりむしろ、絵である。

もともと自然物をかたどってつくられた絵画的シンボルを大本に進化し、意思を伝えるための言語として何千年もの間、使われてきた。

| 視覚・造形芸術としての書

象形文字。その名が表す通り、連なる山を描く「△△△」が省略されて「山」、川の流れを示す「~~~」のタテ版が「川」、「目がヨコ」のタテ形が「目」になったのは、容易にご理解いただけるだろう。

今まで生きてきた時間すべてをこめる
漢字は表意文字、平仮名やカタカナ、アルファベットなどの表音文字には形と音があるが、単体に意味はない。

漢字は形と音のほか、それぞれに「義(意味)」を加えた3要素を兼ね備えている。簡単にいうと形、音、義の3要素をつかい、時に形と形、時に音と形など様々な組み合わせを重ね、5万種ともいわれる漢字を次から次へと、生み出してきた。

書は絵画とともに、視覚芸術とか造形芸術に分類されることが多い。絵画が第一級の芸術であるのは、周知の事実だろう。書作品にも絵画同様、造形がある。色彩、明暗、空間、粗密、重心、構築性、コンポジション……。多彩な要素を見る人すべての目に平等に映し出したとしても、「書」ともなれば読める、読めないというところから問題が始まり、なかなか「感じる」ふうまでに至らない。個々の解読や認知などの能力には、差異がある。

では、書と絵画の決定的違いは何か?

書は文字を素材として扱い、音楽と同じく、一回性の芸術であることだと思う。

仮に、黒いインクと筆っぽいツールでグシャグシャッと描いた表現が見る人により、文字や漢字のように感じられたとしよう。実際には、それは書ではなく美術の領域。モノクロの抽象芸術といったところだ。漢字や平仮名、カタカナの文字、言葉や文学などをモチーフに描かれていなければ、書とはいえない。

書の一回性については、習字の時間を思い出してほしい。先生から口やかましく、二度書きや、なで書きを注意されたと思う。絵画の世界では制作中にお茶を飲んでも、一晩あるいは半年寝かして書き加えても「ノープロブレム」だが、書においては基本的かつ重大なルール違反である。邪魔が入ったとたん、漢字や文字を構成する点画どうしの「気脈」が大きく崩れ、連動が断たれ、不自然きわまりなく粗末な文字表現となる。

| 書の立体感

絵画を書や音楽と比較した場合、絵画には時間の制約がないとは言わないまでも、少ない。永遠に継ぎ足し、書き足しができるので「どこでやめるか、いつ終わりにするか」を問われる。音楽は基本、一つの楽曲が終われば終わり。書は文字、文章を書き終えたら終わり。音楽も書も、あらかじめ始まりと終わりがあるモチーフを何回繰り返すかで、作品全体の質が左右される。ライブともなれば、その瞬間でベストを出さなければならない。

書における絵画性で、私が最も大切にしているのは「立体感」である。

書も絵画も一見、「2D」(2次元・平面)と思われがちである。しかしミクロの視点ではカンバスや画仙紙(書の紙)、定着したインクや墨の表面も凸凹まだらで、厳密には平面といえない。この世に平面や直線は、ないのだ。

一見2D的な表現をいかに「3D」(3次元・立体)に見せられるかが作品の価値、作家の力量を物語る。書や絵画の「空間芸術」たるゆえんは、ここにある。立体感。それは作品から鑑賞者に放熱され、訴えかけてくる多様なエネルギーの形ともいえよう。エネルギーが「お肌」に合うか合わないかが、見る側にとって、作品への好みとなる。
立体感においても、書家の核である「臨書」に対する姿勢が問われる。臨書で文字の3D感覚をとらえるべく古典に迫らない限り、立体感は都合よく出現してはくれない。

「書における立体」

この感覚をつかんだ瞬間、長い間悶々としてきた気持ちがいっぺんに、晴れやかとなった。

書という芸術は、音楽における時間性と絵画における空間性を兼ね備え、さらに文字や言葉などの文学性をモチーフとする「総合芸術」であると、多少なりとも伝えることができたのであれば、うれしい。

あるテレビ番組の海外ロケ中、米国シカゴでギャラリーのオーナーが唐突に切り出した。

「絵画は時間がかかるから高価だが、書はあっという間にできるから安い」

私は「ばかやろう」と言いたい気持ちを抑え、逆にほほ笑みながら冷静に、こう返した。

「今まで生きてきた時間(当時32歳)プラス数分だとしたら、どう?」

書に潜む時間の感覚を納得させるには、まだまだ時間がかかる。

写真: 「虹」(柿沼康二筆)=不思議なむし、あるいは怪奇な麗性の生き物を示す意符「虫」と音符の「工(コウ)」とからなる形声文字が「虹」。そこに渦を巻き、天かける竜の姿を求めた(雄山閣「甲骨金文辞典」参照)
写真: 今まで生きてきた時間すべてをこめる
日本経済新聞社 連載記事
「模倣」と「創造」の垣根はない
書家 柿沼康二
2012年12月25日

臨書風景: 書の古典と向き合う。オーケストラ指揮者の読譜に一脈通じる

写真「心」: 王羲之の字を臨書したとも、創作したともいえる柿沼作品

何ごともコピー、模倣から始まる。
人が話す、歩く、音楽を奏でる、踊る、学ぶ(真似ぶ)、仕事をする。すべてまず何かを真似て、様々の行為ができるようになる。吸ったからこそ、吐ける。書では「臨書と創作」の関係性に当たる。

| 臨書は単なる模倣か?

臨書で色々な栄養を吸収できていればこそ、自分が表現する文字には歴史観や規範性、美的価値が備わる。しかし、芸術の真の価値は過去の模倣や技術的なこと、知識などにあるわけではない。

「今」という瞬間、「個性」、そして作品にこめられた作家のエネルギーあって「なんぼのもの」である。さらに未来、新しさ、メッセージ、仮説など次代への提唱を含んでいなければ、真のアートとは呼べない。

では古典の臨書で吸収した内容をどうしたら、自らの芸術的かつ個性的な書で表現できるのだろう。創作とは自分らしいオリジナルの作品を創造することだが、臨書とは、果たして単なる模倣なのか。

一見、没個性的とも思える臨書や模倣について、少し詳しく触れてみたい。

あるテレビ局のディレクターから、次のような質問を受けた。

「臨書という『写す行為』のうまいのが書家なのか」

「真似るのがうまいのは書家に必要な素質なのか」

知らない対象に向けて発した素朴な質問というよりは勉強不足、私の懐に飛び込んでくるつもりにしては、いささかデリカシーのない質問だったが……(苦笑)。

書を語る際、音楽、特にクラシック音楽に例えると、わかりやすい。

| 書家とマエストロ

ピアノ、バイオリン、何でもいい。まずドレミファに始まり、ひとつの楽曲が奏でられるようになっていく。奏でられるといっても人それぞれ、雲泥の差がある。学校の先生級の演奏か、マエストロ(巨匠)級の芸術品か。

書で言えば、幼稚園児でも字は書けるが、それをアートかと問われれば、言葉に詰まる。

世界的指揮者の小澤征爾さんがベートーベンやバッハの楽曲を指揮した演奏は、模倣だろうか。答えは「NO」である。もし「YES」なら、真似るのが上手な指揮者がマエストロになってしまう。マネシテロ、では誰一人お客様は集まりません!

また、模倣するにしても精神、肉体、道具、時代……と、すべて同一の人間が二人と存在しないのと同じく、オリジナルと完全にシンクロする模倣は永遠にありえない。

前回、臨書の究極は「書き手の心理を読み解く」と書いたが、実は、無理である。完全に読み解くことなど、できない。模倣には、オリジナルと自分との間で、永遠に埋め合わせることのできないギャップが常に、必ず存在し続ける。ギャップとは、他人と自分との絶対的な違いに他ならない。

ギャップを見つめたり、感じたりすることを通して初めて、自己や個性が芽生えてくる。矛盾のようだが、没個性的な模倣が真の個性を生み出すというのが、柿沼流の個性のとらえ方である。私の芸術観の大きなテーマ、「上品なアヴァンギャルド(前衛)」を言い換えれば「温故知新の芸術表現」となる。一心不乱、ひたすらに古典の模倣に精進して生じる自己とのギャップの中から、自己のオリジナリティーを紡ぎ出し、研ぎ上げていく。

優れた指揮者は音符や楽譜を基礎、骨組みにするものの、最終的には独自の解釈と哲学による自己表現を究め、オリジナルとは似て非なる「自分の作品」を演奏(創造)している。その作品は時に、オリジナルをも凌駕(りょうが)してしまう。書家も優秀であればあるほど、古典臨書を介し、そこに書かれた点画を基礎としながら、究極では自分を表現している。楽譜を書の古典、音符を文字の点画ととらえれば、書と音楽は一脈で通じる。

10年くらい前だろうか。修行としか感じられなかった古典臨書が突然、楽しくなった。そして書を、さらに面白く感じ始めた。

臨書と創作は表裏一体、と実感できるようになった。

吸うこと、吐くこと、いずれに偏っても呼吸は自然ではない。臨書は創造のふるさとであるがごとく、自分が吐き出した分だけ、古典からの栄養をとり込まずにはいられない。

「書家の醍醐味は臨書にある」

「昭和の三筆」と称された師、手島右卿(てしま・ゆうけい)の言葉が示す通りだ。

#japanesecalligrapher #書道
日本経済新聞社 連載記事
書に音を聴く
書家 柿沼康二
2013年1月15日

ジャンル破壊。これまでの人生、懲りずに繰り返してきたように思う。物心ついたころから枠にはまるのも、枠にはめられるのも、嫌いだった。

| 「一回性の芸術」を共有

ジャンルはあくまで、便宜上や分類上のくくりであるはずだが、この国では人や事象、さらには芸術までも、やたらジャンルの枠にはめたがる。どこかの分類にすっぽり収まるアートなんて、いったいぜんたい古今東西、存在したのかどうか。はなはだ疑問である。

音楽は聴覚芸術といわれる。書に音を「聴く」ことはできない。だが書には、音楽のような時間の感覚、制約が色濃く求められる。一回性の芸術、という点で音楽と書は共通する。

いちど書き始まったら、最後まで書き続けなければならない。やり直しも、補筆(なで書き)もダメ。携帯電話がうっかり鳴ってしまっただけで、手がけている作品はたいがい没になる。電源オフにしておかなかったことを悔やむことも、少なくない。書いている途中はお茶、トイレも基本NG。音楽家が楽曲を奏でるがごとく、始まったら最後まで続けない限り、作品という一つの形に実らない。

もちろん単に演奏する、書き通すだけで芸術になるなら、誰も苦労はしない。

二度と訪れてはくれない「その時」、瞬間瞬間で自分の生きてきた証(あかし)をうそ偽りなく、真っすぐに焼き付けるのが真の作家の姿である。そこに、作家の個性がにじみ出る。

一回性に介入する一切の雑音、邪念、迷いは大敵となる。

音楽と書の大きな相違点は、録音を別とすれば、奏でられた音が実体としては見えないこと、残らないことだ。書では、墨跡が紙面に残る。書が視覚芸術、空間芸術といわれるゆえんだが、音楽に通じる一回性の側から書を見ていくと、別のさまざまな発見がある。

書のうちに潜む音楽性において、私が最も大切にしているのは「貫通力」である。

貫通力とは、終始一貫、迷いがなく気持ち(気脈)が通っているかどうかを指す。

「自然」「自由自在」というマジックワードを用い、書を明確に説明できた経験は、これまで全くない。書における音楽性、そして、自然とは何かをうまく言い当てられず、長い時を過ごしてきた。

長い模索の末、貫通力というキーワードに至った。音符や文字の点画や骨組みを巧みに組み合わせ、骨組み同士の間に存在する白い空間を解釈し、間やリズムを生み出す。さらに起承転結、序破急といった全体感を物語る。生命感たっぷりに、何の矛盾もなく、一つの作品を終始貫通させられるか否か。その力が作家の力量、センス、魅力を左右する。

絶対音感の善しあしを厳密に判定するのは難しい。だが、カラオケの歌が音痴かどうかは、一般の人にもすぐ判別がつく。

| 絶対書感とは何か

しかしカラオケで上手に歌えたとしても、絶対音感を持ち合わせていたとしても、聴き手の心に残らない音楽はたくさんある。いや、この年になると、心に残る音楽に出会う機会の方がまれである。「うまい」と「良い」では、かなり違うのだ。

では絶対音感ならぬ、「絶対書感」「文字音痴」(いずれも造語)はどうだろう?

皆、はじめから文字音痴、絶対書感など持って生まれはしない。日本では、習字や学書をして、徐々に書感を正すことが一般のたしなみであった。

寺子屋における「読み・書き・そろばん」はいまや、「見る・キーボード・電卓」に代わった。人工的につくられた写真植字の字体(フォント)以外すべて「読みづらい文字」と感じ、筆で書かれた場合は楷書以外すべての書風に苦手意識を示す。楷書をほんの少し崩した行書となれば、端(はな)から分からない、読めないと白旗を揚げてしまう人も少なくない。

書家や書道家といっても、ピンキリだ。書壇に属し、しっかり研さんを積む人もいれば、書壇にあっても古典臨書に背を向け、先生のお手本のコピーづくりに一生をささげる人、学校やカルチャーセンターで教員をしながら手堅く学書する人、賞や師範の肩書きを冠に生きる人、メデイアの世界に出たがるタレントみたいな自称書道家、……。いずれも、それぞれの生き方なので「大きなお世話」ではあるが、時として、あまりにひどい筆文字を目にするたび、嘆かわしい思いにかられる。

メディアでゆがんだ文字感覚が披露され、知らず知らずのうちに目や耳から吸収し続けている子どもたち、日本人の未来に強い危惧を覚えるといったら、問題だろうか?

絶対書感を体得する、文字音痴といわれないよう感覚を研ぎ澄ますには、やはり臨書がすべてである。古典を模倣する過程の中に問題を意識し、解決できるかどうかにかかっている。古典から型を吸い、己を吐き出し続けない限り、単なる筆文字は、そう簡単に「書」へと化けてはくれない。
草月100周年記念出版
5/1新発売!12年間の言葉が、一冊になった。
『家元対談 私の流儀』 勅使河原茜

創流100周年を記念して「家元対談」が書籍化!
家元が各界で活躍する方とそれぞれの流儀を語り合う「家元対談 私の流儀」は、季刊『草月』の人気連載です。35組の豪華ゲストとの対談が一冊の本になりました。2014年から12年間に家元が語ったこととは? お互いの意外な素顔も垣間見える、初めての対談集です。

[ 収録ゲスト ]
桐島かれん(モデル·俳優)/尾上松緑(歌舞伎役者・藤間流家元)/眞田岳彦(衣服造形家)/美輪明宏(歌手・俳優)/観世清和(観世流二十六世宗家)/猪子寿之(チームラボ代表)/鈴木京香(俳優)/村松亮太郎(NAKED INC.代表)/加藤清之(陶芸家)/中村橋之助(歌舞伎役者)・三田寛子(俳優・タレント)/山本寛斎(デザイナー)/佐藤オオキ(デザインオフィスnendo代表)/小山登美夫(ギャラリスト)/ヒダノ修一(ドラマー)・小山豊(津軽三味線奏者)/棚田康司(彫刻家)/廣瀬雄一(江戸小紋 廣瀬染工場四代目)/川淵三郎(元日本サッカー協会 会長)/ヨシダナギ(フォトグラファー)/座・草月(パフォーマンスユニット)/北斗晶(タレント 元プロレスラー)/藤田将範・高野菜々(ミュージカルカンパニー 音楽座)/奈良祐希(陶芸家・建築家)/加藤積一(ふじようちえん園長)/吉村華洲(龍生流家元)/脇屋友詞(中国料理シェフ)/田丸みゆき(京菓匠「笹屋伊織」女将)/勅使河原萱(草月流次期家元)/本木克英(映画監督)/大宮エリー(歌手・俳優)/柿沼康二(書家・現代美術家)/小原宏貴(小原流五世家元)/浜名一憲(セラミックアーテイスト)/中嶋峻太(ALMOSTBLACKデザイナー)/由美かおる(俳優・歌手)/永井裕明(アートディレクター)・国井美果(コピーライター)

(対談の一部抜粋)

柿沼 初めてだったのでかなり衝撃的でした。葉を折ったり、ドライバーで留めたりというのが(笑。)二作ともパンデミックの時期に書いたのですが、最初にいけていただいたのは「イマ トランス」という作品。イマをどう掴むかということが常に自分の表現のテーマの根底にあって、もやもやしているイマを、スナイパーのように逃さず仕留めたい。イマと言った瞬聞にイマはもうないから、最終的には永遠のイマなんです。
2作目の「生」は、みんなが見失っている生きる意味みたいなものを焼き付けようと思ったんです。2作とも花とコラボレーションすることで書の見え方が変化して、空間が変わりましたね。もともと害と花は合うなと思っていましたが見事に呼応して。それと、拝見していて花をいける動作はダンスっぽいなと。書も運動なので、運動神経の良い人や体育の先生は上手。たぶん動体視力がいいんだと思います。上手な人が書いている時、普通の人が見逃してしまう細部までちゃんと見ているのでしょう。ダンスは残らないけれど、書やいけばなは、動作の軌跡が文字や造形として残っていきます。

家元 リズム感や流れなど、確かにダンスに似ているかもしれません。いける動作がなめらかな人は上手ですね。

柿沼 優柔不断な人は進まないから、見ている方もやっている本人も疲れてしまう。

家元 花も同じです。植物は生き物ですからその場で決断できない人はすごく苦労するんですよ。

柿沼 上手い人の書は線が丸いから立体的に見える。へたっぴは平板でホップしていない。そのへんは花と共通しているように思います。上手にいける人の作品は立体的でなんらかのエネルギーが放出されていて、空間と一体化している。僕は書の三要素と言っているのですが、角度、圧度、速度、それを自在に使いこなせるのが逹人の秘訣。家元の動きを見ていてそれに近いも現ができない場合は、この一つのポイントを確認するとだいたいわかる。スピードが足りない、力を入れすぎている、ちょっと角度がずれているとか。

家元 三つのポイントで作品に何が足りなかったのか分析できますね。いけばなの場合、場を総合的に把捉して、この空間だからというのがすごく大事です。
In particular, the JP calligraphy industry tends to focus on questions like:

What is calligraphy?

Is JP calligraphy art?

Is JP calligraphy contemporary art?

The question of whether JP calligraphy is art or contemporary art is actually not that important.

Contemporary art does not arise from categories or genres created by narrow-minded people.

Contemporary artists don't even think of themselves as creating contemporary art.

They become so immersed in self-expression that springs from their hearts that they lose track of time.

Ultra-concentration and an ultra-broad perspective are paramount.

不死鳥」Phoenix H750 × W1100cm
「 一 (BOSE Ver.)」 H270 × W515cm

金沢21世紀美術館 コレクション展2
文字の可能性
2025年9月27日(土) - 2026年1月18日(日)
前期展示:~11月16日(日)
後期展示:11月18日(火)~

コレクション作品2点の展示(前期後期共)
「不死鳥」H750 × W1100cm
「 一 (BOSE Ver.)」 H270 × W515cm

公式サイト

本展は現代アート作品における文字の表れを切り口に、当館のコレクション作品をご紹介します。
わたしたちの日常生活には、様々な文字が溢れています。今読んでくださっているこの文章も文字で書かれていますが、メールやSNS、本、看板、ポスター、映像字幕など、わたしたちが普段文字を目にしたり、読んだり、書いたり、打ったりする機会は枚挙にいとまがありません。情報伝達の手段としてわたしたちの生活に溶け込んだ文字ですが、文字そのものの存在や意匠、機能を考えてみる機会は案外少ないのではないでしょうか。
文字が通常、情報やメッセージを伝えるために用いられるように、アートにおいても、文字があることで新たな意味が浮上し、思考が深まり想像が膨らむような作品が多くあります。一方で、文字は万能ではありません。むしろ文字によって作品の意味が撹乱され、安易な意味付けが阻まれる場合もあります。
さらに、文字の様相に着目することで、書く(描く)/読むといった、文字をめぐる行為やその身体性が透けて見えてくる作品もあります。文字を取り巻く身体性に改めて目を留めることは、デジタル・デバイス上で文字を扱うことが日常化した現代において重要な視座になるでしょう。
本展で取り上げる作品は、絵画、版画、ポスター、書、陶、映像、インスタレーションなど、幅広い表現形式にわたりますが、そのほとんど全てに文字が組み込まれています。なぜこの作品にあえて文字が使われたのか、どうしてこの文字を選択したのか、なぜこのようなかたちで表現されているのか、文字があることでいかなる作用が生まれているのか──。こうした視点から文字に注目して作品を見つめ直すことで、新しい解釈の可能性が拓かれます。そしてまた、文字を手がかりに金沢21世紀美術館のコレクション作品を鑑賞することを通じて、SNS時代におけるわたしたちの文字との関わりかたを見つめ直す機会にもなるでしょう。文字を用いた表現の魅力と奥深さをじっくりと味わってみてください。

出品作家
セシル・アンドリュ Cécile ANDRIEU
粟津潔 AWAZU Kiyoshi
マルセル・ブロータース Marcel BROODTHAERS
ギムホンソック Gimhongsok
シルパ・グプタ Shilpa GUPTA
井上有一 INOUE Yuichi
泉太郎 IZUMI Taro
柿沼康二 KAKINUMA Koji
北出不二雄 KITADE Fujio
ジョセフ・コスース Joseph KOSUTH
中村錦平 NAKAMURA Kimpei
邱志杰(チウ・ジージエ) QIU Zhijie
サイトウ・マコト SAITO Makoto
塩見允枝子 SHIOMI Mieko
ルパート・スパイラ Rupert SPIRA
横尾忠則 YOKOO Tadanori
風林火山 Furin-Kazan (Wind, Forest, Fire,Mountain)
NHK大河ドラマ題字 Title of NHK Taiga-Dorama.

#柿沼康二
#kojikakinuma#kojikakinuma_ec #calligraphy #contemporaryart

Koji Kakinuma's engagement

Koji Kakinuma's engagement rate on Instagram is 6.6%, over 6%, more than 6 likes and comments per 100 followers. On a typical post that comes to about 1 like or comment for every 15 followers. Likes outnumber comments by roughly 85 to 1, with 680 likes and 8 comments on an average post, so most reactions are taps rather than replies.

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Research Koji Kakinuma further

Flinque ranks Instagram creators in Artist and Art & DIY, categories Koji Kakinuma is filed under, and its free tools measure the same figures for any public account.

Frequently asked questions

These answers about Koji Kakinuma are generated from the Instagram profile data Flinque holds for the account.

Who is Koji Kakinuma?

Koji Kakinuma (@kojikakinuma) is an Artist creator on Instagram, also filed under Art & DIY. Koji Kakinuma is set up as an Instagram business account. The Instagram bio for Koji Kakinuma runs to 20 words across 8 lines.

How many followers does Koji Kakinuma have?

Koji Kakinuma has 9,739 followers on Instagram (9.7K). Koji Kakinuma follows 805 accounts, so the audience is roughly 12 times the size of the list followed. Koji Kakinuma has built a substantial archive of 949 posts.

What is Koji Kakinuma's engagement rate?

Koji Kakinuma's engagement rate on Instagram is 6.6%, over 6%, more than 6 likes and comments per 100 followers. On a typical post that comes to about 1 like or comment for every 15 followers. Likes outnumber comments by roughly 85 to 1, with 680 likes and 8 comments on an average post, so most reactions are taps rather than replies.

What does Koji Kakinuma post about on Instagram?

Flinque files Koji Kakinuma under Artist, with Art & DIY as a secondary category. Of the 10 most recent posts shown for Koji Kakinuma, 6 are carousels and 4 are single images. The 10 recent Instagram captions Flinque holds for Koji Kakinuma repeatedly use the words 柿沼康二, 日本経済新聞社, 連載記事, 長文のため and calligraphy. Koji Kakinuma's captions carry hashtags such as #calligraphy, #書道 and #japanesecalligraphy. Koji Kakinuma writes those captions mainly in Japanese.

How do I contact Koji Kakinuma for a collaboration?

Koji Kakinuma's contact details are not published on Flinque's public profile. The Instagram bio links to 1 external site, and a free Flinque account opens that link. The account is registered as an Instagram business account. Brands with a free Flinque account can shortlist Koji Kakinuma and use Flinque's outreach tools wherever a contact route is on file.

Koji Kakinuma's own Instagram profile is the one outbound link Flinque publishes for the account, and the bio link opens after signing up.

Public profile data sourced from Instagram. Flinque is not affiliated with Koji Kakinuma.

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